言い訳じみたことを書き連ねていくページです。負の感情の溜まり場です。
「誰しもそうなのだ」というお言葉はここでは受け付けられません。すいません。
私は、はっきりと「いじめられた」ことはありません。
いじめられていたとしたら、それは多分自分のせいです。
ごく普通の子なら、「やめてよ」「嫌」と一言言えば済むようなこと
(子供なら誰しも経験しますよね?)、私がそれを言えなかったせいです。
大まかな経緯は「今までの私」に書いています。
どうしても、先生に監視されている気がしてしまうのです。
私は、一番後ろが好きで、だれかと並んで歩くときも、後ろでないと落ち着かないくらいです。
そういう性、なんでしょうか。
あとは、同級生に合わせられないのもあるかも…。
興味が持てないことに無理に合わせる能力を持ち合わせていません…
グループで集まって噂話をすることは、私には恐怖そのものです。噂、悪口、嘲笑、そういったものを聞いていると心臓が痛んできます。
話題の人物は他人だというのに…
グループで噂・悪口を言う。それは、裏を返せば「グループを抜けたら、あるいは抜けなくともグループが反感を覚える行為をとった場合には否応無く悪口を言う」ことになりはしませんか。
もしかしたら、なにも嫌われる行為をしていないのに、理由も無く”ハブられる”かもしれないですし。
彼女たちが一斉にトイレに行きたがるのは、隠れて自分の悪口を言われることが不安だから…というのは私の考えすぎでしょうか。
学校での私には「授業中の自分」と「それ以外の自分」がありました。
授業中は勉強のことを考えていたいし、知っていれば手も挙げてみたい。
「先生と自分(生徒)」の関係です。
でも、休み時間は休み時間の自分「クラスメイト(友達)と自分」の関係になります。
例えば「先生と自分」なら敬語(目上の人)、「友達と自分」ならタメ口(自分と同等)、そういう違いがありますよね。
そして、それぞれの自分を、「先生と自分」の時の自分を「友達と自分」の友達に、
「友達と自分」の自分を「先生と自分」の先生に見て欲しくなかったのです。
判りにくいかもしれませんが、ようするに
「敬語を使っている(=目上の人と、変な話が対峙している)自分を友達に見られたくない」というようなことです。
だから授業中に手を挙げているのを友達には見られたくないし、友達と話している所を先生に見られたくない。
親に対しても同じことが言えますから、一年生の初めての授業参観のとき父に「来ないで。せめてビデオ撮影しないで」と言ったのに
来てしまった時、泣き叫んだのです(心の中で「だから言ったじゃないか。可愛く手を挙げる娘が
見られなかったのはアンタのせいだ。ざまあみろ」などと思っていました。酷い娘です)。
今は幾分マシになったものの…三者面談とか、大嫌いです。
入学式も卒業式も来てほしくありません。
なんで行かないのか? 私もそれを知りたいです。自分にも分かりません。
同級生に言われると、つらいです。
先生に言われると、困ります。
家族に言われると、自分が家にいてはいけない気がしてきます。
「頑張って」系統の言葉も苦手です。
今でも「努力」「勇気」「忍耐」「逃げ」などに過剰反応してしまいます。
それが当たっているだけに、つらいです。
心配性です。段々酷くなってきます。
外出すれば「家に鍵をかけてきたか」心配で仕方がありません。
高所恐怖症も出てきて、小さい頃には楽しかった観覧車も、今では手に汗握るスリリングな乗り物。
電車に乗りながら脱線事故を想像するのも、よくあることです。歯医者で治療中に地震が来て、口中が血だらけになるとか。
多分病院にいけば病名がつくかもしれませんね。
しかし、病院にいって薬をもらえば、副作用で躁になったり眠くなったりする→さらに薬が増えて悪循環になりはしないかという恐怖感が同時に存在します。
ものすごく落ち込みやすいです。とても。
些細なことを結構覚えているものです…
浮き沈みが激しいですね〜。冬や生理前は特に。
これもかなり大きいと思います。
不登校にはこのタイプが多いかも知れません。私なんかと一緒にされては困ると思いますが。
まず、宿題を忘れたり、持ち物を忘れたりすると、帰りたくなる・休みたくなる。
「宿題をやるためのノートを持ち帰るのを忘れてしまった!宿題を忘れるくらいなら休んだほうがマシだ!」という考えです。
そのほかにも、「勉強をやるからには全部理解できないと嫌。分からないなら手を付けない」などなど…
それと、「その年はまだ子供」ということに気づいていませんでしたね。
つまり、小学校1年生の時には「もう幼稚園とは違うんだ」と、2年生なら「もう1年生とは違う」…という具合に。
その年齢が、まだ完璧でなくても良かった、といことに、終わってから気づきます。
6年生の時などは、自分の思考は大人と同じだと思い込んでいましたし。
だから、もう少し子供っぽく(思うままに)感じて振舞ってもよかったんだなぁと後悔することしきり。
いつも「もう一度この年度をやり直せたら(留年じゃなくて、上記のことをを知った状態で、時間が戻ったら)いいのに」と思っていました。
意識下で、「完璧は無理。とるに足らなくてもいいじゃないか。」そう思い込もうとしていますけれど、果たしていつまでもそれでいいのでしょうか?
4年生の時、少しだけ「毎日学校に行くのが普通」だと感じた時期がありました。
そのころは、多少嫌な科目・イベントがあっても「嫌だな〜」程度にしか感じず、本当に「毎日行くのが当たり前って、こんな感じだったんだ」と思ったものです。
あのときの感覚は忘れられません。
元々普通に学校に行っていて、不登校になった方ならお分かりになるかもしれませんが、私はそういう経験がほとんどなかったので新鮮でした。
毎日学校に通う学生達は、ずっとあんな感じなのだうと思います。
その感覚があったのは、4年生の時だけです(1年生もきちんと行ったはずだけど、記憶にない…)。未だに訪れていません。
あるいは、毎日通う学校に行って、1%の確率でも「毎日通う」が普通になったら、味わえるのかもしれません。
どちらにしても就職すればそれが普通にならなければいけないのですし。
学校で言うと、先生の指名です。順番に発言する時すら心臓バクバクなのに、ランダムで指名された日には自信のあった答えですら言えなくなります。
指名されなくとも、指名されるかもしれない恐怖は相当のもので 授業が終わるまでは鼓動がテンポ180を刻み、心臓の音で耳が聞こえづらくなります。
学校以外だと…順番待ちで呼ばれる時ですね。